読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

たたかってみ

生きているんだ

苦悩と呼ぶもの。自分は生きる人間だということについて。

たまに、自分の体が自分の意志によって動かされていることに対して、違和感を感じることがある。今ここで、自分が席を立ちあがり、ジャンプしようとすれば、体はその通りに動くし、職場を抜け出して、銀行へ強盗にいくことだってできる。途中、近くのコンビニによって、万引きをしてもいいし、持っているライターで火をつけることも可能だ。

 

頭の中であれこれと想像するだけのことや、何でもない普通の動作さえ、すべては自分の意志によるもので、自分自身がそれを選択し、それが行動に反映されているということ。

自分の意志や、思考が、体という道具と結びついていることに底知れない不安を感じる。どうして、私の意志によって、この体は動きまわり、言葉を発したりすることができるんだろう。

仕組みや原理ではなく、すべて自分の意思決定によってもたらされた結果の行動なのに、どうしてこの自分自身を選択することはできなかったのだろうか。

私には独立した意思の下で、自分というたった唯一無二の体を選択した。

どうして私自身を選んだのか、どうしてここに座っているのは私という人間であるのか。そもそも体とは容器、道具でしかないのでは?

何事にも理由付けができて、原因が必ず存在するのならば、どうしてこんな一番身近な自分自身のことですら、理解できないのだろうか。

そもそもこんなことを考えること自体が間違っている?

誤った考えとは、ある一定の事柄に対しての解釈についてであり、それ自体を疑問視する過程については、そうであるとは言えないと思うが。。

 

なんで多くの人はこうやって当たり前のことに疑問を抱こうともしないんだろうか。

自分と同じことや同じ違和感を感じているほかの意志を持った人々はどうやって、この問題に対して答えを導き出してきたのだろう。

 

映画や、ドラマ、小説など、人間の想像力はどうやって生まれるんだとあなたは思いますか?

一度も経験したことのないことなのに、どうして空想の世界は限りなく広がっていくのか。空を飛んだ経験がある人間はいない筈なのに、タケコプターという発想はどこから来たの?

 

経験のないことを作り出す力は、どうして備わっているのだと思いますか?

何のために?というのではなく、なんで、それができるのか。そして、どうしてそれが実現できないのか。

 

出来ることとできないことがあるのはなんででしょうか。

反結婚派としての意見。女、24歳、彼氏なし。その3.

三回目のこの記事では、恋愛を通じて幸せを得ることへのリスクをあなたに伝えたい。

人間は常に一人きりで生きている。だから友達や仲間を作り、共存していると自分に言い聞かせることで、毎日を生きる活力が沸いていく。

だが、恋愛はそれをも一瞬で打ち砕くような強力な破壊力を持っている。

生命の維持に関わる精神的苦痛を与えかねない。

その欲求を生み出しているのは、性欲であり、本当の意味で、それを解消する術を身に着けさえすれば、恋愛、ひいて結婚という対人間との無意味な関係を構築する必要がなくなるのだ。

 

人間は、必ず死ぬ。

 

将来人間の存在意義そのものが変わって、生に対する考え方が一変するその時までは、確実に、人は生まれた瞬間に死ぬことが確定している。

 そんな儚いたった一度きりの一生の中で、苦しみを抱えて生きていくことは、どれだけの時間とお金と、労力を消耗していくことだろう。

 

たとえ、あなたの目の前にいるその人が、あなたにとってかけがえのない存在だと思えても、決して早まってはいけない。人間は、必ず死ぬのだ。

 

我々は、生きながらにしてどの瞬間でも、快楽を求めている。本能的に、自分を喜ばせ、幸福感を感じたいと思う生き物なのだ。だから、お腹が減ったらたらふく美味しいものを食べたいと思うのと同じように、何かを手に入れたいと思う衝動は生きる上では仕方のないことだ。

そしてその欲求のなかに、恋愛というキーワードが確実に存在する。自分以外の人から愛されることへの喜びを、恋愛という行為を通じて得ようとする。

 

欲求を満たすために、恋愛をする。

 

一度本能的な人間の真理に立ち返ってみてみればそれは明らかだ。

だが、技術革新が進んだこの現代社会において、恋愛というような相当なリスクを背負ってまで、幸福感を得ようとする我々人間の行為は、あまりにも動物的であると言わざるを得ない。

 

そんな本能的な衝動を抑えることについては、今までの人類の歴史から見ても、次第に解消されるべき問題であり、その本能のまま生きていくことは、果たして賢い人間のやることといえるのであろうか。

 

恋愛をして、性欲という名の幸福感を満たそうとする行為。わたしはそれが浅ましく、汚く感じられるのだ。

ドラえもんの世界が実現される一歩手前まで来ている近未来的な世の中に変わりつつある現代なのに、人間のそういう根本的な欲求の解消方法はいまだに変わらずにある。

普遍的なものもあるべきだという見方からすればこれは唯一の美徳なのかもしれないが、わたしには全くそうは思えない。

三大欲求を満たすことが人間の生きていく上での重要な要素だとしても、これからの時代も常にそうであるとは限らない。

 

現に、睡眠時間を削ったとしても即死には至らない。致命的でなければ、しかるべき処置をすることで、いくらでもまた元気に走り回ることが可能だ。

食欲を抑える薬だってあるし、最悪何かを食べなくても、何かしらの形で栄養を補うことさえできれば、生命の維持にはなんら問題ない。

性欲だって同じことだ。それを結びつけるのに、恋愛が必要だと非科学的な答えがあるのも事実だが、実害はないのだ。なくても、生きていける。これが答えである。

 

反結婚派としての意見。女、24歳、彼氏なし。その2.

先回は恋愛を肯定する人たちが、われわれのことを悪だと思っているのではと纏めた。

この回では、私が恋愛をしたくない、反結婚派と自分を言い切ることのできる本当のところを解いていきたいと思う。

 

 

私は、恋愛こそが悪だと思う。

 

この言葉に尽きる。

恋愛こそが、悪である。

 

”犯人の動機は、恋愛関係の縺れです。”というお決まりのフレーズがあるように、恋愛は十分に殺人の動機になり得る。

”浮気されたことを知ったので、相手を殺してやろうと思った”

”告白したのに、取り合ってくれなかった”

”親友だと思っていたのに、好きな人をとられた”

上げればきりがないほど、人間は恋愛をすることにより自我を失い、強引な方法で自分を慰めようとする。その結末として自分や人を殺めてしまう。

確実に、”恋愛”が引き起こした惨劇だ。恋愛をしなければ、こんなことにはならなかった。自殺の動機にもなり、他殺の動機にもなる、恋愛を肯定することがどうして出来ると言えようか。

 

三島由紀夫も、著書「反貞女大学」の中で、

 

”恋してはいけない! 恋したら怖ろしいことになる! 恋したらだれかが死なねばならぬ!”

 

と言葉を残している。この一文はTwitter上で見かけたものなのだが、まさにその通りだと感嘆した。しかし、この文章を調べてみると、この言葉は、不倫関係に陥った時に相手に対する想いへ忠告する一文であり、”恋愛”そのものを否定する言葉ではないことが分かった。

不倫関係にある相手に対してだと思えば、多くの恋愛肯定派の方々にも、この言葉がすんなりと心に響き、理解できるだろう。

だが、それは必ずしもそういった場合のみで通用するわけではない。

やはりこの言葉こそ、真理をついていると私には思えるのだ。

 

恋愛は人を死に至らしめる。

 

しかもそれは、いつどのタイミングでやってくるかわからないのだ。

可能性を常にはらんでいて、いつ衝動が襲ってくるのか予想できないのが、恋愛という悪である。

先述のように、三島由紀夫は不倫関係に陥った女へ対して、”恋してはいけない!”と説いたが、ほんとうの、肝心な部分はそこではない。

冗談でも、僻みでも、妬みでもなく、私はただ本当のことをここに記す。

 

”恋愛はするべきではない。”

 

もしあなたが今恋愛をしようとしているのならば、一度考え直してほしい。

それは、あなたにとって、生命にかかわるとても重大なことになりかねない。

 

恋愛をすれば、かけがえのない人とめぐり逢ったような気分になり、その人なしでは生きられないと錯覚するようになる。その人と一緒に同じ時間を過ごすだけでも、人生に価値があるように思え、自分が辛い現実に打ちのめされそうになったとしても、恋愛をしていることで活力が生まれ、生きていく動機になる。

常に寄り添って、常に味方をしてくれる存在が恋愛によってもたらされることは、天涯孤独の人間にとってはとても有意義なことで、意味をなす存在であろう。

 

だが、そんな存在を不意に失うことになってしまった時の苦しみは、計り知れない。

どんなものにも代えられない、どんなものでも補うことのできない切ない思いをたった一人抱えて生きていかなければならない羽目になり、それまで順風満帆と思えた人生も、その瞬間から、まさしく地獄と化す。すべてが試練のように感じられ、遠い誰もいない世界に放り投げられた孤独感。自分以外の誰にも理解することのできない絶望を味わう。

手に入れた分、確実に、失う。

 

恋愛によってもたらされる幸福は一時的なものでしかなく、あなたを本当の意味で理解し、支えることができるのは、あなた自身しかいないのだ。

反結婚派としての意見。女、24歳、彼氏なし。その1.

わたしには彼氏がいない。

正確に言うと、3か月ほど前に別れてしまった。

でもまったく、後悔がないし、あの頃に戻ったら楽しいんだろうと考えることもあるけれど、元カレとやり直したいという気持ちは1ミリも、ない。

振られた側の私ですが、すごく今の自分が好きだと自信を持って言えます。

負け犬の遠吠えだとこの時点で思った人もいるだろうけれど、これが今の私のリアルである。

ブサイクなわけでもなく、かといって目立つほど美人なわけでもない、AKBに居そうな顔レベルの顔面偏差値。会社員。今年24歳。

痩せているほうだし、基本的に愛嬌がある人間だと思う。

最近は、ちょっと違うんだけど。

みんなが言う、結婚とは。

小学生だったころ、24歳くらいで結婚するものだと思ってた。

でも今年の誕生日で私は結婚するはずの年齢となった。

あの頃は、今ぐらいの年齢になったら、結婚して、そして2,3年で子供が生まれ親になり、そうやって年を重ねていくものだとばかり思っていた。

 

大人になった現在、考え方が変わってしまった。

その適齢期に達した今なわけだが、全く、焦りを感じず、結婚をしていなくて当然だとハッキリとあなたの目を見て私は言い切ることができる。

結婚に対しての価値観が根底から、まったく変わってしまった。

 

結婚って、どうしてするの?

私みたいに、結婚しなくてもいいと思う人間がいる一方で、幼かったころの夢、”お嫁さん”になることを実現していく知人を何人も見てきた。高校を卒業したてのころは、想定外の妊娠で、結婚をした人も多くいた。最近では、長年付き合った相手と婚約し、結婚式を挙げる人も増えてきており、お嫁さんの夢が次々に果たされていっている。

だが、わたしは、反結婚派だ。しなくても、損じゃないとはっきりと言い切りたい。

 

どうしてみんな、”お嫁さん”になるのを夢見ていたんだろうか。

かつてその夢を抱いていたうちの一人でもある私の場合、当時はそうなることが、当たり前だと思っていた。

自然と大人になっていくにつれて、そういう未来があるのが当たり前で、そうでない人たちが特例なのだと思っていた。だから自然と自分が大人になった時の姿を想像したときに、結婚している姿を思い浮かべた。それが、その時の私にとって、普通だったからだ。

でも、いま、それは私の中で普通ではない。

 

結婚には必ず、 ”恋愛” が付きまとう

 

初めに言っておきたい。

わたしは、”恋愛”が嫌いだ。 誰かを好きになったり、そして誰かから好かれたりすることに対して、大きな違和感がある。ストレートに、嫌で、嫌で、仕方ない。

そもそも、恋愛はどうして人生の中で大きなテーマとしていまだに君臨しているのだろうか。

占いのカテゴリーには必ず、総合運、金運、仕事運、そして、”恋愛運”が存在する。

映画や小説のストーリーのジャンルわけにも、コメディ、アニメ、アクション、ホラー、そして、”ラブストーリー”。

音楽にも、”ラブソング”という概念があり、ホテルだって、”ラブホテル”がある。

この世になかには、”ラブ〇〇”や、”恋愛〇〇”などと呼ばれるモノが数えきれないほど存在し、そしてそれをみんな当たり前に認識して生活している。

2017年、今を生きる私たちの世界には、”恋愛”が蔓延ってしまっているのだ。

現代社会は、恋愛否定派の私としては非常に生きにくい世の中なのである。

 

きっと一人ではないと思う。幽霊が嫌いな人もいるのと同じで、恋愛が嫌いな人が居てもいいはずだ。

しかし、”恋愛が嫌い”というフレーズに対して、多くの人が批判的な態度をとり、それを改善させようと勝手に、躍起になり出す。当人からすればちっともそんなことは望んでいない。余計なお世話だ。

まるで、恋愛を嫌う人間は人間でないかのような目。

どうして、克服する必要があるのだろう?まず、克服という言葉の使い方からして間違っている。どうしても恋愛しないといけないのだろうか?恋に落ちて、互いを求め合い、生きていく覚悟を共にしていく相手を見つけようとしないことは、悪なのか?

恋愛至上主義の彼らからすれば、恋に落ちることは善であり、それを否定し一人で生きることは、つまり悪なのである。。

 

 

社会人4年目の春、働き方について真面目に考えてみる 

社会人4年目になるこの春、初心という言葉がとても遠い存在に感じている。

 

学生気分がなかなか抜けず、社会の一員となったことに対しての違和感を感じながら、

懸命にその輪に馴染むようにとあがいていた3年前。

 

仕事というものに対してある程度の余裕ができ、自分のライフスタイルが確立し始め、

やりたいこととやりたくないことが段々と目立つようになってきた2年前。

 

働くことについての意義を見出すことで、自分自身の能力を高め、

社会人としての存在価値を誇示しようとした1年前。

 

いろんな思惑があり、そのために突っ走って努力を重ね、

何事も、経験、経験、と心の中で唱え、耐えながら、

つらくて逃げたい時を我慢し、今までを乗り越えてきた。

今までは。

そうやって、4年目の春が来ようとしている今、果たして私たちは何を目標に、

次のステップへ向かうべきなのだろうか。

 

人それぞれの価値観の中で、やっぱり同じような考え方をしている仲間がいること

 

かつての同級生に、聞いてみた。

社会人4年目になるわけだけども、何も目標がなく、ただ日々を

のらりくらりと過ごして、休みが来るのを待つだけの毎日を過ごしていること。

彼女もまた、同じようなことを考えているところだったらしい。

類は友を~ということなのかもしれない、ということは逆に私たちと同じ考えの人が

まだたくさんいるということだ。

同じような仲間を見つけるために、そしてそういう考えの人たちの何かヒントになればと、ブログにまとめることにした。

 

やりたいことってどうやって見つけるの?

 

その友達と二人で考えて、出した答えは、”仕事以外のことを頑張る”ことだった。

 

職場にいる家庭を持つ上司や先輩たち、社会人になりたての新人には守るものがあるからこそ、やる気に満ち満ちている。

 

結婚して家庭があれば、それを守るために仕事熱心になるのは当然のことだ。

さらに子供がいるとなれば、もっと自分の社会人としての責任感は重くのしかかり、その期待に応え、成果を上げるべく前向きに仕事に取り組むようになるだろう。

実際自分がその年齢になって、家庭を持つことを想像すれば、彼らの頑張りは然るべきだろうとも思えるし。

 

その一方で、新入社員について。

彼らからにじみ出るやる気は、まるで、カステラの下についている紙のようなもので、はじめは、あって当たり前なのだと私は言いたい。

しかし、その紙が必要なのは作っていく過程で、実際のところ、まったく必要ないことに数年かかって気付く。

その時が来ると、たちまち不要になってそのちっぽけな存在にイライラしたりして、すぐさまゴミ箱に丸めて捨てられていく。

そしてそれが、新入社員のやる気という別名を持った、カステラの紙である。

 

カステラの紙を剝ぐことにある種の快感や痛快さを覚えてしまった私たちは、

カステラという和菓子が出来上がる過程でのその紙の重要さを思い出すことができない。

それこそが今、ここで問題にしている、働き方についてという問いそのものであり、私や友達が考えても考えても考えても見いだせない、というよりも、思い出すことのできない"紙"への想いなのだ。

 

 

4年目の、怠惰。

 

はっきり言ってしまえば、そうだ。

じゃあ、この社会人らしからぬ態度で仕事に臨む私たちをどうやって奮い立たせるのか。先に書いたように、家庭を持つことでそれは解消するのかもしれない。

自分の人生を自分だけで終わらせず、他のだれかを関与させることが、仕事への意欲を沸き起こらせるために必要なことのようだし。

 

でも、あいにく私たちのような考えの若者は”結婚”というものに対して良いイメージがない。

誰かのために生きることが窮屈で仕方なく、

そもそも恋愛をすることに大きな価値があると言い切れない部分がある。

”恋愛”は明らかにハイリスクノーリターンだ。

時間もお金もたくさん必要で、しかもそれ以上になにより、心が疲れる。

これを思っている若者はきっと今、すごく多いと思う。

 

恋愛をしなくても、あるいはその最終形態として結婚を選択しなくても、

十分、生き生きと毎日を過ごすことができる環境が、

私たちの周りには出来上がってしまった。

やがて子供を持ち、家庭を守ることが大人、つまりそれが成長しているという一般論みたいなものは、

もはやかなり古いしきたりとも言える考えで、今はそんなことをしなくても幸せだと思える瞬間が山ほどある現代社会だ。

 

 

私たちの目の前には、つねに選択肢が山のように存在している。

 

そうして、4年目の怠惰を感じている私は、仕事を、趣味のために頑張ることに決めた。

はっきりこの時点でここからこうしているという自覚は全くない。

ただなんとなくどこかの瞬間から思い立って、今、そういう考え方になってしまっている。

 

平日5日間、1日8時間は仕事をこなす。

土日祝日は自分のために時間を費やす。仲間と飲みに行ったり、好きな音楽を聴いたり、映画を見たり、本を読んだり、旅行をしたり、ドライブしたりする。

それこそが、仕事を頑張る理由であり、生きていく意義みたいなものだと思えた。 

 

でも、気付いた。というよりも、気付いてしまった。。

そんな風に1週間の大半を占める仕事をこなしていくだけ、

ただ来る休みの日のために1日8時間を費やしている自分、そしてそれの繰り返しの私。

生きている実感がどんどん薄れていく。同じことの繰り返しで朝が来て、やがて夜になって、週末になって、月曜日、また仕事が始まる。

こんな退屈な毎日を過ごす自分を変えていきたいという意気込みもむなしく、

毎日のくだらない退屈ない日々が劇的に変化していくわけでもない。

生きていくために、仕事以外の時間を頑張ること。

でも、それ以外の時間でなにをしているんですか?と聞かれたとき、

これです。私はこれをやっています。という胸を張って主張できることがない。

なぜなら、目標がないのだ。

これでは、こなすだけになってしまった仕事への熱意と同レベルだ。

仕事じゃないなら、趣味で、と思っていたけれど、そこへ向かう情熱さえ、

カステラの紙程度の、ちっぽけなプライドに成り下がってしまった。

 

ここにきてはっきりと、人生には何かしらの目標が必要なのだと改めて実感した。

そこへ向かっていくのだという決意や、同じ目的へ向かう仲間がいるからこそ、

一体感や連帯感を感じながら、毎日を有効的に過ごしていくことができる。 

 

帰るべきところみたいなもの。私には、これがある、と胸を張って言えるもの。

 

それこそが私なりに出した答えである。

 

ただただ1時間2時間、と過ぎる時間に意味を見いだせず、そのあとにやってくる自分だけの時間たちをどうやって生きていこうかと、たったそれだけのためにこの瞬間もデスクに座っている日々に色どりを付けるような感覚で、私は人生の中に小さな目標を見出すことができた。

 

 

働くことは、お金を稼ぐこと

 

付加価値なんて、そもそも必要のないものだ。生き生きと働くことに、強制力はない。

死んだような目で仕事をこなしていても、他に迷惑が掛かっていないのならば、それでいいのだ。それで何の問題も発生しない。

私が出した結論、働き方について、何のために働くのか、「働く」ことについて、

どんな意識で居ればいいのか。その答えはとても身近な場所にあった。

見て見ぬふりをしていた。

 

お金を稼ぐために働く という言葉がとても汚く浅ましく思えて、なんだか使う気になれなかったし、そんなことのために時間を使うくらいなら、少ない給料で、その分やりたいことをやる、と思っていた。

けれども、やりたいことが見つからない今、無理やりやりたいことを見つけようとするよりも、趣味に目標や大きな価値を見出すことで、自分の人生は「働く」ことだけではないことを、いまやっと大きな気持ちで肯定することができる。

 

働くことは、お金を稼ぐとこだ。

 

その理由で間違いはないだろうし、そうじゃないと答えるひともきっといない。

見方が変われば、それで十分だ。