たたかってみ

生きているんだ

決意なんてな

決意なんかするから揺らぐんじゃ。

常識のない、とんでもない人でも結婚して子を持つ親になったりな、

大して仕事ができなくても役職のあるポジションを任されたりする。

理不尽のように思えるが、そういうことがまかり通るのが現実であり、
それにいちいち文句ゆっても、根絶することはできない。

だったら?やらん。
なにもしない。

なにもしないことに対して、ある意味の恐怖を持っていましたが、やめました。
そんなことしても、どーにもならん。

絶望的になっているのではなく、かといって現実を帯びた意見でもない。

そーしたいと思うだけ。。。。

酒が抜けてないだけかもしれんけど、、、、、、

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働き方の模索

今の自分は、過去の自分の蓄積です。
ジョブスも言っていた過去の「ドット」をつないだところに自分はいます。

まずは、過去においてどんなことがあったのか、
あなた自身は、どんなことに感動し、どんなことに心震わせる人なのか、
どんなことにがむしゃらに頑張れたのか。
ひとつひとつを思い出し、書き出してみてください。
それぞれの場面をありありと思い出し、もう一度想像の中で体感します。
どんなことを感じ、どんなことに心が動いたのか、そして、何に気付いたのか。

思いもよらなかった感情や記憶が、掘り起こされるかもしれません。
潜在意識の中から、あなた自身が気付いていないけれども、
あなたの意識や行動に大きく影響していた記憶がよみがえってくるのです。
すると、自分が何に喜びを感じる人間なのか、何を大切にしたい人間なのか、見えてくるはずです。
それが、きっと「自分軸」です。

 

自分軸 | 就活の未来 - Part 2

 

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嫌われている

集団の中でいかに孤立せずに、毎日を平穏に暮らしていくかというのは、社会人であれば当たり前の”スキル”であることに間違いはない。

団体行動が嫌いだったり、人に気を遣ったり、あるいは遣われたりすることが嫌いだという個性は、枠の中からはみ出そうとする悪であり、汚点だ。

それぞれにいいところ、わるいところがある、という意見では、対する一個人の関係性が影響しているから当たり前であって、全く公平ではない、私的な感情を大いに含んだ見解である。

 

人間が、嫌いである。感情、その時の体調や、気分などに左右され、また他人の意見もそれを覆せることのできる要因であり、結果が常に安定していない。

不確定要素をはらみ、いつだってそこから離脱することのできる自由すぎる感情があるがゆえに、その解釈の仕方や、感性に左右される。

嫌だ。

合わない点が目立った瞬間に、その人物からは嫌われるね。

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苦悩と呼ぶもの。自分は生きる人間だということについて。

たまに、自分の体が自分の意志によって動かされていることに対して、違和感を感じることがある。今ここで、自分が席を立ちあがり、ジャンプしようとすれば、体はその通りに動くし、職場を抜け出して、銀行へ強盗にいくことだってできる。途中、近くのコンビニによって、万引きをしてもいいし、持っているライターで火をつけることも可能だ。

 

頭の中であれこれと想像するだけのことや、何でもない普通の動作さえ、すべては自分の意志によるもので、自分自身がそれを選択し、それが行動に反映されているということ。

自分の意志や、思考が、体という道具と結びついていることに底知れない不安を感じる。どうして、私の意志によって、この体は動きまわり、言葉を発したりすることができるんだろう。

仕組みや原理ではなく、すべて自分の意思決定によってもたらされた結果の行動なのに、どうしてこの自分自身を選択することはできなかったのだろうか。

私には独立した意思の下で、自分というたった唯一無二の体を選択した。

どうして私自身を選んだのか、どうしてここに座っているのは私という人間であるのか。そもそも体とは容器、道具でしかないのでは?

何事にも理由付けができて、原因が必ず存在するのならば、どうしてこんな一番身近な自分自身のことですら、理解できないのだろうか。

そもそもこんなことを考えること自体が間違っている?

誤った考えとは、ある一定の事柄に対しての解釈についてであり、それ自体を疑問視する過程については、そうであるとは言えないと思うが。。

 

なんで多くの人はこうやって当たり前のことに疑問を抱こうともしないんだろうか。

自分と同じことや同じ違和感を感じているほかの意志を持った人々はどうやって、この問題に対して答えを導き出してきたのだろう。

 

映画や、ドラマ、小説など、人間の想像力はどうやって生まれるんだとあなたは思いますか?

一度も経験したことのないことなのに、どうして空想の世界は限りなく広がっていくのか。空を飛んだ経験がある人間はいない筈なのに、タケコプターという発想はどこから来たの?

 

経験のないことを作り出す力は、どうして備わっているのだと思いますか?

何のために?というのではなく、なんで、それができるのか。そして、どうしてそれが実現できないのか。

 

出来ることとできないことがあるのはなんででしょうか。

反結婚派としての意見。女、24歳、彼氏なし。その3.

三回目のこの記事では、恋愛を通じて幸せを得ることへのリスクをあなたに伝えたい。

人間は常に一人きりで生きている。だから友達や仲間を作り、共存していると自分に言い聞かせることで、毎日を生きる活力が沸いていく。

だが、恋愛はそれをも一瞬で打ち砕くような強力な破壊力を持っている。

生命の維持に関わる精神的苦痛を与えかねない。

その欲求を生み出しているのは、性欲であり、本当の意味で、それを解消する術を身に着けさえすれば、恋愛、ひいて結婚という対人間との無意味な関係を構築する必要がなくなるのだ。

 

人間は、必ず死ぬ。

 

将来人間の存在意義そのものが変わって、生に対する考え方が一変するその時までは、確実に、人は生まれた瞬間に死ぬことが確定している。

 そんな儚いたった一度きりの一生の中で、苦しみを抱えて生きていくことは、どれだけの時間とお金と、労力を消耗していくことだろう。

 

たとえ、あなたの目の前にいるその人が、あなたにとってかけがえのない存在だと思えても、決して早まってはいけない。人間は、必ず死ぬのだ。

 

我々は、生きながらにしてどの瞬間でも、快楽を求めている。本能的に、自分を喜ばせ、幸福感を感じたいと思う生き物なのだ。だから、お腹が減ったらたらふく美味しいものを食べたいと思うのと同じように、何かを手に入れたいと思う衝動は生きる上では仕方のないことだ。

そしてその欲求のなかに、恋愛というキーワードが確実に存在する。自分以外の人から愛されることへの喜びを、恋愛という行為を通じて得ようとする。

 

欲求を満たすために、恋愛をする。

 

一度本能的な人間の真理に立ち返ってみてみればそれは明らかだ。

だが、技術革新が進んだこの現代社会において、恋愛というような相当なリスクを背負ってまで、幸福感を得ようとする我々人間の行為は、あまりにも動物的であると言わざるを得ない。

 

そんな本能的な衝動を抑えることについては、今までの人類の歴史から見ても、次第に解消されるべき問題であり、その本能のまま生きていくことは、果たして賢い人間のやることといえるのであろうか。

 

恋愛をして、性欲という名の幸福感を満たそうとする行為。わたしはそれが浅ましく、汚く感じられるのだ。

ドラえもんの世界が実現される一歩手前まで来ている近未来的な世の中に変わりつつある現代なのに、人間のそういう根本的な欲求の解消方法はいまだに変わらずにある。

普遍的なものもあるべきだという見方からすればこれは唯一の美徳なのかもしれないが、わたしには全くそうは思えない。

三大欲求を満たすことが人間の生きていく上での重要な要素だとしても、これからの時代も常にそうであるとは限らない。

 

現に、睡眠時間を削ったとしても即死には至らない。致命的でなければ、しかるべき処置をすることで、いくらでもまた元気に走り回ることが可能だ。

食欲を抑える薬だってあるし、最悪何かを食べなくても、何かしらの形で栄養を補うことさえできれば、生命の維持にはなんら問題ない。

性欲だって同じことだ。それを結びつけるのに、恋愛が必要だと非科学的な答えがあるのも事実だが、実害はないのだ。なくても、生きていける。これが答えである。

 

反結婚派としての意見。女、24歳、彼氏なし。その2.

先回は恋愛を肯定する人たちが、われわれのことを悪だと思っているのではと纏めた。

この回では、私が恋愛をしたくない、反結婚派と自分を言い切ることのできる本当のところを解いていきたいと思う。

 

 

私は、恋愛こそが悪だと思う。

 

この言葉に尽きる。

恋愛こそが、悪である。

 

”犯人の動機は、恋愛関係の縺れです。”というお決まりのフレーズがあるように、恋愛は十分に殺人の動機になり得る。

”浮気されたことを知ったので、相手を殺してやろうと思った”

”告白したのに、取り合ってくれなかった”

”親友だと思っていたのに、好きな人をとられた”

上げればきりがないほど、人間は恋愛をすることにより自我を失い、強引な方法で自分を慰めようとする。その結末として自分や人を殺めてしまう。

確実に、”恋愛”が引き起こした惨劇だ。恋愛をしなければ、こんなことにはならなかった。自殺の動機にもなり、他殺の動機にもなる、恋愛を肯定することがどうして出来ると言えようか。

 

三島由紀夫も、著書「反貞女大学」の中で、

 

”恋してはいけない! 恋したら怖ろしいことになる! 恋したらだれかが死なねばならぬ!”

 

と言葉を残している。この一文はTwitter上で見かけたものなのだが、まさにその通りだと感嘆した。しかし、この文章を調べてみると、この言葉は、不倫関係に陥った時に相手に対する想いへ忠告する一文であり、”恋愛”そのものを否定する言葉ではないことが分かった。

不倫関係にある相手に対してだと思えば、多くの恋愛肯定派の方々にも、この言葉がすんなりと心に響き、理解できるだろう。

だが、それは必ずしもそういった場合のみで通用するわけではない。

やはりこの言葉こそ、真理をついていると私には思えるのだ。

 

恋愛は人を死に至らしめる。

 

しかもそれは、いつどのタイミングでやってくるかわからないのだ。

可能性を常にはらんでいて、いつ衝動が襲ってくるのか予想できないのが、恋愛という悪である。

先述のように、三島由紀夫は不倫関係に陥った女へ対して、”恋してはいけない!”と説いたが、ほんとうの、肝心な部分はそこではない。

冗談でも、僻みでも、妬みでもなく、私はただ本当のことをここに記す。

 

”恋愛はするべきではない。”

 

もしあなたが今恋愛をしようとしているのならば、一度考え直してほしい。

それは、あなたにとって、生命にかかわるとても重大なことになりかねない。

 

恋愛をすれば、かけがえのない人とめぐり逢ったような気分になり、その人なしでは生きられないと錯覚するようになる。その人と一緒に同じ時間を過ごすだけでも、人生に価値があるように思え、自分が辛い現実に打ちのめされそうになったとしても、恋愛をしていることで活力が生まれ、生きていく動機になる。

常に寄り添って、常に味方をしてくれる存在が恋愛によってもたらされることは、天涯孤独の人間にとってはとても有意義なことで、意味をなす存在であろう。

 

だが、そんな存在を不意に失うことになってしまった時の苦しみは、計り知れない。

どんなものにも代えられない、どんなものでも補うことのできない切ない思いをたった一人抱えて生きていかなければならない羽目になり、それまで順風満帆と思えた人生も、その瞬間から、まさしく地獄と化す。すべてが試練のように感じられ、遠い誰もいない世界に放り投げられた孤独感。自分以外の誰にも理解することのできない絶望を味わう。

手に入れた分、確実に、失う。

 

恋愛によってもたらされる幸福は一時的なものでしかなく、あなたを本当の意味で理解し、支えることができるのは、あなた自身しかいないのだ。

反結婚派としての意見。女、24歳、彼氏なし。その1.

わたしには彼氏がいない。

正確に言うと、3か月ほど前に別れてしまった。

でもまったく、後悔がないし、あの頃に戻ったら楽しいんだろうと考えることもあるけれど、元カレとやり直したいという気持ちは1ミリも、ない。

振られた側の私ですが、すごく今の自分が好きだと自信を持って言えます。

負け犬の遠吠えだとこの時点で思った人もいるだろうけれど、これが今の私のリアルである。

ブサイクなわけでもなく、かといって目立つほど美人なわけでもない、AKBに居そうな顔レベルの顔面偏差値。会社員。今年24歳。

痩せているほうだし、基本的に愛嬌がある人間だと思う。

最近は、ちょっと違うんだけど。

みんなが言う、結婚とは。

小学生だったころ、24歳くらいで結婚するものだと思ってた。

でも今年の誕生日で私は結婚するはずの年齢となった。

あの頃は、今ぐらいの年齢になったら、結婚して、そして2,3年で子供が生まれ親になり、そうやって年を重ねていくものだとばかり思っていた。

 

大人になった現在、考え方が変わってしまった。

その適齢期に達した今なわけだが、全く、焦りを感じず、結婚をしていなくて当然だとハッキリとあなたの目を見て私は言い切ることができる。

結婚に対しての価値観が根底から、まったく変わってしまった。

 

結婚って、どうしてするの?

私みたいに、結婚しなくてもいいと思う人間がいる一方で、幼かったころの夢、”お嫁さん”になることを実現していく知人を何人も見てきた。高校を卒業したてのころは、想定外の妊娠で、結婚をした人も多くいた。最近では、長年付き合った相手と婚約し、結婚式を挙げる人も増えてきており、お嫁さんの夢が次々に果たされていっている。

だが、わたしは、反結婚派だ。しなくても、損じゃないとはっきりと言い切りたい。

 

どうしてみんな、”お嫁さん”になるのを夢見ていたんだろうか。

かつてその夢を抱いていたうちの一人でもある私の場合、当時はそうなることが、当たり前だと思っていた。

自然と大人になっていくにつれて、そういう未来があるのが当たり前で、そうでない人たちが特例なのだと思っていた。だから自然と自分が大人になった時の姿を想像したときに、結婚している姿を思い浮かべた。それが、その時の私にとって、普通だったからだ。

でも、いま、それは私の中で普通ではない。

 

結婚には必ず、 ”恋愛” が付きまとう

 

初めに言っておきたい。

わたしは、”恋愛”が嫌いだ。 誰かを好きになったり、そして誰かから好かれたりすることに対して、大きな違和感がある。ストレートに、嫌で、嫌で、仕方ない。

そもそも、恋愛はどうして人生の中で大きなテーマとしていまだに君臨しているのだろうか。

占いのカテゴリーには必ず、総合運、金運、仕事運、そして、”恋愛運”が存在する。

映画や小説のストーリーのジャンルわけにも、コメディ、アニメ、アクション、ホラー、そして、”ラブストーリー”。

音楽にも、”ラブソング”という概念があり、ホテルだって、”ラブホテル”がある。

この世になかには、”ラブ〇〇”や、”恋愛〇〇”などと呼ばれるモノが数えきれないほど存在し、そしてそれをみんな当たり前に認識して生活している。

2017年、今を生きる私たちの世界には、”恋愛”が蔓延ってしまっているのだ。

現代社会は、恋愛否定派の私としては非常に生きにくい世の中なのである。

 

きっと一人ではないと思う。幽霊が嫌いな人もいるのと同じで、恋愛が嫌いな人が居てもいいはずだ。

しかし、”恋愛が嫌い”というフレーズに対して、多くの人が批判的な態度をとり、それを改善させようと勝手に、躍起になり出す。当人からすればちっともそんなことは望んでいない。余計なお世話だ。

まるで、恋愛を嫌う人間は人間でないかのような目。

どうして、克服する必要があるのだろう?まず、克服という言葉の使い方からして間違っている。どうしても恋愛しないといけないのだろうか?恋に落ちて、互いを求め合い、生きていく覚悟を共にしていく相手を見つけようとしないことは、悪なのか?

恋愛至上主義の彼らからすれば、恋に落ちることは善であり、それを否定し一人で生きることは、つまり悪なのである。。