社会人4年目の春、働き方について真面目に考えてみる
社会人4年目になるこの春、初心という言葉がとても遠い存在に感じている。
学生気分がなかなか抜けず、社会の一員となったことに対しての違和感を感じながら、
懸命にその輪に馴染むようにとあがいていた3年前。
仕事というものに対してある程度の余裕ができ、自分のライフスタイルが確立し始め、
やりたいこととやりたくないことが段々と目立つようになってきた2年前。
働くことについての意義を見出すことで、自分自身の能力を高め、
社会人としての存在価値を誇示しようとした1年前。
いろんな思惑があり、そのために突っ走って努力を重ね、
何事も、経験、経験、と心の中で唱え、耐えながら、
つらくて逃げたい時を我慢し、今までを乗り越えてきた。
今までは。
そうやって、4年目の春が来ようとしている今、果たして私たちは何を目標に、
次のステップへ向かうべきなのだろうか。
人それぞれの価値観の中で、やっぱり同じような考え方をしている仲間がいること
かつての同級生に、聞いてみた。
社会人4年目になるわけだけども、何も目標がなく、ただ日々を
のらりくらりと過ごして、休みが来るのを待つだけの毎日を過ごしていること。
彼女もまた、同じようなことを考えているところだったらしい。
類は友を~ということなのかもしれない、ということは逆に私たちと同じ考えの人が
まだたくさんいるということだ。
同じような仲間を見つけるために、そしてそういう考えの人たちの何かヒントになればと、ブログにまとめることにした。
やりたいことってどうやって見つけるの?
その友達と二人で考えて、出した答えは、”仕事以外のことを頑張る”ことだった。
職場にいる家庭を持つ上司や先輩たち、社会人になりたての新人には守るものがあるからこそ、やる気に満ち満ちている。
結婚して家庭があれば、それを守るために仕事熱心になるのは当然のことだ。
さらに子供がいるとなれば、もっと自分の社会人としての責任感は重くのしかかり、その期待に応え、成果を上げるべく前向きに仕事に取り組むようになるだろう。
実際自分がその年齢になって、家庭を持つことを想像すれば、彼らの頑張りは然るべきだろうとも思えるし。
その一方で、新入社員について。
彼らからにじみ出るやる気は、まるで、カステラの下についている紙のようなもので、はじめは、あって当たり前なのだと私は言いたい。
しかし、その紙が必要なのは作っていく過程で、実際のところ、まったく必要ないことに数年かかって気付く。
その時が来ると、たちまち不要になってそのちっぽけな存在にイライラしたりして、すぐさまゴミ箱に丸めて捨てられていく。
そしてそれが、新入社員のやる気という別名を持った、カステラの紙である。
カステラの紙を剝ぐことにある種の快感や痛快さを覚えてしまった私たちは、
カステラという和菓子が出来上がる過程でのその紙の重要さを思い出すことができない。
それこそが今、ここで問題にしている、働き方についてという問いそのものであり、私や友達が考えても考えても考えても見いだせない、というよりも、思い出すことのできない"紙"への想いなのだ。
4年目の、怠惰。
はっきり言ってしまえば、そうだ。
じゃあ、この社会人らしからぬ態度で仕事に臨む私たちをどうやって奮い立たせるのか。先に書いたように、家庭を持つことでそれは解消するのかもしれない。
自分の人生を自分だけで終わらせず、他のだれかを関与させることが、仕事への意欲を沸き起こらせるために必要なことのようだし。
でも、あいにく私たちのような考えの若者は”結婚”というものに対して良いイメージがない。
誰かのために生きることが窮屈で仕方なく、
そもそも恋愛をすることに大きな価値があると言い切れない部分がある。
”恋愛”は明らかにハイリスクノーリターンだ。
時間もお金もたくさん必要で、しかもそれ以上になにより、心が疲れる。
これを思っている若者はきっと今、すごく多いと思う。
恋愛をしなくても、あるいはその最終形態として結婚を選択しなくても、
十分、生き生きと毎日を過ごすことができる環境が、
私たちの周りには出来上がってしまった。
やがて子供を持ち、家庭を守ることが大人、つまりそれが成長しているという一般論みたいなものは、
もはやかなり古いしきたりとも言える考えで、今はそんなことをしなくても幸せだと思える瞬間が山ほどある現代社会だ。
私たちの目の前には、つねに選択肢が山のように存在している。
そうして、4年目の怠惰を感じている私は、仕事を、趣味のために頑張ることに決めた。
はっきりこの時点でここからこうしているという自覚は全くない。
ただなんとなくどこかの瞬間から思い立って、今、そういう考え方になってしまっている。
平日5日間、1日8時間は仕事をこなす。
土日祝日は自分のために時間を費やす。仲間と飲みに行ったり、好きな音楽を聴いたり、映画を見たり、本を読んだり、旅行をしたり、ドライブしたりする。
それこそが、仕事を頑張る理由であり、生きていく意義みたいなものだと思えた。
でも、気付いた。というよりも、気付いてしまった。。
そんな風に1週間の大半を占める仕事をこなしていくだけ、
ただ来る休みの日のために1日8時間を費やしている自分、そしてそれの繰り返しの私。
生きている実感がどんどん薄れていく。同じことの繰り返しで朝が来て、やがて夜になって、週末になって、月曜日、また仕事が始まる。
こんな退屈な毎日を過ごす自分を変えていきたいという意気込みもむなしく、
毎日のくだらない退屈ない日々が劇的に変化していくわけでもない。
生きていくために、仕事以外の時間を頑張ること。
でも、それ以外の時間でなにをしているんですか?と聞かれたとき、
これです。私はこれをやっています。という胸を張って主張できることがない。
なぜなら、目標がないのだ。
これでは、こなすだけになってしまった仕事への熱意と同レベルだ。
仕事じゃないなら、趣味で、と思っていたけれど、そこへ向かう情熱さえ、
カステラの紙程度の、ちっぽけなプライドに成り下がってしまった。
ここにきてはっきりと、人生には何かしらの目標が必要なのだと改めて実感した。
そこへ向かっていくのだという決意や、同じ目的へ向かう仲間がいるからこそ、
一体感や連帯感を感じながら、毎日を有効的に過ごしていくことができる。
帰るべきところみたいなもの。私には、これがある、と胸を張って言えるもの。
それこそが私なりに出した答えである。
ただただ1時間2時間、と過ぎる時間に意味を見いだせず、そのあとにやってくる自分だけの時間たちをどうやって生きていこうかと、たったそれだけのためにこの瞬間もデスクに座っている日々に色どりを付けるような感覚で、私は人生の中に小さな目標を見出すことができた。
働くことは、お金を稼ぐこと
付加価値なんて、そもそも必要のないものだ。生き生きと働くことに、強制力はない。
死んだような目で仕事をこなしていても、他に迷惑が掛かっていないのならば、それでいいのだ。それで何の問題も発生しない。
私が出した結論、働き方について、何のために働くのか、「働く」ことについて、
どんな意識で居ればいいのか。その答えはとても身近な場所にあった。
見て見ぬふりをしていた。
お金を稼ぐために働く という言葉がとても汚く浅ましく思えて、なんだか使う気になれなかったし、そんなことのために時間を使うくらいなら、少ない給料で、その分やりたいことをやる、と思っていた。
けれども、やりたいことが見つからない今、無理やりやりたいことを見つけようとするよりも、趣味に目標や大きな価値を見出すことで、自分の人生は「働く」ことだけではないことを、いまやっと大きな気持ちで肯定することができる。
働くことは、お金を稼ぐとこだ。
その理由で間違いはないだろうし、そうじゃないと答えるひともきっといない。
見方が変われば、それで十分だ。