たたかってみ

生きているんだ

選択をするということは

最強の戦士として君臨し続けるために

最強の戦士として君臨し続けるためには、敵を倒し続けなければならないし、
立ちはだかるあらゆる敵たちに負けないために、成長し続けなければならない。
未だ何も経験値がないが、人並み外れたポテンシャルを持つサーヴァントでも、
対戦経験がなければ、いつか自分よりも強い敵が現れ、打ちのめされてしまう。

最初からすべての能力が備わっている人間なんて存在しない。

だからこそ、さまざまな経験をして、それを活かすべく活躍のフィールドを探る。
自分の信じた道に勝手に各々進んでいき、最後には必ず皆死んでいく。

どれだけ苦しくても今の現状を変えられるのは自分自身しか居ない。
たとえ苦しみを自分が抱えているとしても、別の視点から見たときには全く別モノの
感情が生まれてしまうことだってあり得るのが、世の中の常である。

あらゆる矛盾が生じ、あらゆる生命が誕生する。

自分たちの計算式を遥かに上回る手法で、人々は進化を遂げ、今日も生きながらえている。

目の前に在ることが耐えられない=逃げ
という考え方もあれば、

その一方向からしか見れない考え方自体を容認せず、
また新しい道を見つけることが、どうして他者に非難されることであろうか。

 

例えの中に、「道」という言葉が多用される。

頭のなかに一番イメージしやすい、人生に分岐点と呼ばれる二股あるいはそれ以上の数ほど
目の前に道が広がっているとして、どの方角へ進むのか、それを唯一決定することが出来るのは、
我々自身であり、他の誰にも決定権は存在しない。

人からの指示を受け、実行したのは自分自身であり、他者がその選択へ介入しコントロールすることは出来ない。と言っていい。

 

では、我々は、武力行使をされ、今にも殺されるというその時に、
果たしてどんな選択の余地があるというのだろうか。

人間、自ら死を選ぶということは許されないように設計されているように思える。

どんなに恐ろしい状況でも、どうしてもなぜか生きたいと思うのが人間であると。
だが、例えば恐怖に全身を支配された状況ではどうだろう。
死=幸福である、と自我が判断すれば、その思いのままに動くのだろうか。
だとすると、それも最善の策であるとその瞬間に我々が自覚しながら選択をしたという結論か。

我々は、生きていることに対してどうして疑問を感じるのだろう。
万物には答えや理由が在るという前提は崩されてしまっているのだろうか。。。

 

 

それにしても眠いので続きはまた。